2018年11月19日
  • 真の目覚めを求める方のために

唯我独尊とは…。

確か今年の9月のサットサンガに参加した日の夜のことですが、
布団に入って目を瞑っていると、エナジーの働きで頭の中がとても静かになって広大な空間の中に一人ただ在るという感覚になりました。
いつもはどこかしら外側に何かを投影する思念があるので、「ただ私がぽっかりと在る…」という境地は初めての感覚でした。
それでふと「お釈迦様は生まれたときに天上天下唯我独尊とおっしゃった」ということを思い出して「唯我独尊」とはこういうことを言うのではないかな…と思いました。
とにかく、真我一体になられたナーナ先生の放つプラーナの空間にいたら嫌でも変化していってしまいます。
それで私のような俗人でもたった2年と3カ月の参加でそんな境地を体験したのです。
もともと「唯我独尊」という言葉は聞いたことがありますが、それがどういうことを指すのかはよく分かっていなかったのでネットで調べてみました。
「唯我独尊」などというと尊大なイメージを持たれる場合もあるようですが、もちろんお釈迦様はそんな次元で言っているのではないことは分かります。
いくつか解釈がありましたが、その中の一つに、「唯我独尊というのは人間だけが他の動物とは違って尊い存在なのだ…」と書いている説明があったので、それだったら私が感じたのは違うと思っていました。

それが、つい昨日インドのスワミの著作をたまたま開いたらそこに唯我独尊について書いてある文を見つけました。

以下抜粋です。

「このようにして聖霊と一体になった人は、ついに不生不滅の永遠の父そのものと一つになって、サティヤ・ローカにはいる。そこで彼は、すべての創造物が、本質的には自分の属性をもって映し出した単なる観念の遊戯にすぎず、また、宇宙には自分以外に何物も存在しないことを悟る。この一体化の状態をカイヴァリヤ(唯我独尊)という。」
スワミ・スリ・ユクスワテ著 「聖なる科学」より
※サティヤ・ローカとはナーナ先生が通られた永遠の世界の領域へと続く入り口なのです。

それで、やはり想念の遊戯という幻想が消えて、ただ在るという感覚の事を唯我独尊というのだと納得しました。

このように、ナーナ先生のエナジーの中にいるといろんな体験が起こってきて、実際の体験を通して言葉の意味が分かるということがたくさんあるのです。
唯我独尊という言葉も先人の中に何人もそれを体験した人がいて、そしてそれを伝えているので普遍的なことだと分かります。
同じような感覚は、次の瞑想会の参加後にも起こりました。
ただ、私の場合はこの文章の中にあるようにサティヤ・ローカほどの段階のものではなく、ナーナ先生によると瞑想(ディアーナ)から三味(サマーディ)の間の体験だそうです。
唯我独尊の境地の入り口を垣間見たというところでしょうか…。
そういう体験を繰り返しながら、少しずつ自我のとらわれが外れていって真我に近づいてゆくのです。

今の日本においてお坊さんでさえ、「唯我独尊」の意味を正しく言える人はほとんどいないようです。
それは体験がないからなのです。
先日、僧侶の方がマインドフルネス瞑想会に参加されました。
修行をして職業的には僧侶になられたけれど、やはり本当のことが知りたいということで参加されたのでしょう。
ナーナ先生にお会いできてとても喜んで感激していたようです。
真理の探究者であれば、こんな奇跡やこんなチャンスはないと大喜びするのは当然です。
真の探求心を持っていれば、恐れや自分の立場からのプライドなどどうでも良くなって本当の事を識りたいと飛び込んで来るのです。

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